イタリアは一日にしてならず
「LORO 欲望のイタリア (原題:LORO)」
イタリアのベルルスコーニ首相の半生を描く映画です。予告編に堂々と「国民無視!」って出てたり、公式サイトに「トランプなんて子供だましさ」とか書かれてるのでお金と権力の乱用をふんだんに盛り込んだ相当品のない映画なんじゃないかなと恐る恐る見始めたのですが、確かに品のない描写はあるものの、品のないことをしているのはベルルスコーニではなく、ベルルスコーニに取り入ろうとしていた別の人でした。
映画の中でのベルルスコーニは大豪邸で優雅に暮らしつつ、老い先の心細さを抱えつつ、妻や孫、政治関係者にも丁寧に応対する紳士のように描かれています。首相として執務している描写はほとんどなく、ベルルスコーニさんの人となりに焦点が当てられた映画でした。イタリアの政治がわからなくても観られる作りになっています。
映画だけ観ると「あれ?ベルルスコーニって実はいい人?」と思ってしまいそうですが、wikipediaには(本当かどうかは別として)お金と権力の乱用だけでなく女性問題や人が眉をひそめるような発言も載っており、どちらかと言えば映画本編よりも予告編の方がベルルスコーニのイメージ近いです。日本だったら首相にはなれない人だろうな。。。
色彩と意識について
「永遠の門 ゴッホの見た未来 (At Eternity's Gate)」
観たいと思ってたけど予定が合わず、DVD化してようやく観られました。日本が明治時代だったころに活動した画家ゴッホの晩年が描かれる映画です。元々心に病を持っていたゴッホが、ゴーギャンとの同棲の解消を経てさらにバランスを崩し、亡くなるまでの顛末を描きます。
この映画では登場人物(主にゴッホ)をアップで映し出して語らせ、人物の内面を描き出すカットが多用されます。副題にある「ゴッホの見た」景色を表現するのに効果的な演出です。通説では心を病んで自死してしまったとされるゴッホですが、この映画ではゴッホの死因も通説とは変えてあります。ゴッホの心象では時間の概念が消失しており、それがタイトル「At Eternity's Gate」ともつながっており、それを語るゴッホが一体どんな景色を見ていたのか興味をかきたてられます。(でもそこまでしっかり描いてくれるのなら死因も通説どおりにしてほしかったなあとも思います。)
ゴッホ役のウィレム・デフォーさんの演技力で成り立つ映画でした。 享年37歳のゴッホを当時62歳だったデフォーが演じて、やっとゴッホらしさを表現できたということです。ということは、ゴッホはやはり普通の人とは異なる、普通の人よりもずっと深く物事を見ていたのかもしれません。そんな想像をかきたててくれる映画です。
6月の金曜日の夜に観たい映画について
「サイバー・ゴースト・セキュリティ (Nekrotronic)」
インターネットの世界に潜みダウンロードされたアプリを通して人を襲う悪魔を退治する、という今年観た映画の中でわけわか度maxな映画。冒頭5分ほどで「これはハズレ映画ひいちゃったかな」と思ったのですが、コメディとシリアスのバランスが取れており、意外なほど物語が無駄なくテンポよく進みます。お酒でも飲みなら観ましょう。
「ファイティング・タイガー (Man of Tai Chi)」
太極拳の愛好家で普段は宅配員として働く主人公が裏格闘技大会に誘われ、現れる対戦相手を次々と戦っていくお話。「トリプル・スレット」が面白かったので観てみましたが、今作ではタイガー・チェンの切れ技が主演で見られます。見どころはもちろん格闘技アクションですが、主人公の葛藤や成長もちゃんと描かれます。
「ベイビー・ドライバー (Baby Driver)」
車の運転技術を買われ犯罪者の逃亡を手助けする、音楽好きの主人公のカーアクション映画です。特に物語と関わりはないものの、足音や銃撃音などが劇盤に合わせてリズミカルに進行するシーンがところどころにあります。映像と音楽をうまく組み合わせた、アイデア一本で観客の意表を突く演出に、作品のセンスが光ります。
分断の切り口について
「リチャード・ジュエル(Richard Jewell)」
爆発物を発見して一躍注目を浴びるも、犯人ではないかと疑いをかけられメディアと警察に追及される警備員の話。実際にあった1996年のアトランタテロ事件をもとにした映画で、御年90歳のクリント・イーストウッド監督作品です。
観客の興味の引くようエンターテインメント性も盛り込み社会派映画だけど難しくなり過ぎない構成になっています。90歳で自分の作家性だけにこだわらずに観客の目も気にすることができるバランス感覚はすごいですね。
無実の罪で犯人扱いをされてしまった主人公のリチャード・ジュエルですが、軽度の障がいがあるかのような描写があります。この映画は警察とメディアの誤認でプライバシーを侵害されてしまった市民を描くだけでなく、アメリカ社会にある差別の存在を提示している映画にも見えました。
人種・宗教・所得・教育などなど、違いがあることが前提のアメリカ社会です。リチャード・ジュエルの事件が起きたのは26年前。違いがある人を差別しない寛容さも、その頃より醸成されたはずですが、昨今のように揺れている世の中では、ふとした拍子に差別が吹き出してしまうのでしょうか。
アメリカのいま
「スケート・キッチン (Skate Kitchen)」
ニューヨークでスケートボードに熱中する女の子と仲間との交流を描くお話。ストーリーは特にありません。
アメリカの家庭の離婚率は5割を超えると聞いたことがあるのですが、この映画の主人公はメキシコから移民の母子家庭です(映画の配役にしても似てない親子だなと思ったらお母さん役の人はこの映画の監督でした)。 作劇的には片親にした方が親役ひとり分の人件費を払わなくていいし、片親になってしまった家族の歴史など、物語の本筋と関わらないところで物語に深みを与えられるので、作劇的には効果的な演出なのかもしれませんね。
普通の女の子ではなく「スケートボードが上手な女の子」を主人公に据え、観客の注目を集める工夫があります。やけにスケボーが上手だと思ったら主演のRachelle Vinbergさんは役者もできるプロのスケートボーダーでした。この映画はVinbergさんの自伝的な側面もあるそうです。
つながりはスケートボードのみ、そこに登場人物がいるだけ。世界の首都とも言われるニューヨークで、家族や友達との細かいいさかいや、移民・人種・ジェンダーなどのアメリカ社会にある捉えどころのない命題の中を登場人物たちが漂います。世界はそこに広がっているが、羽ばたいていくことがまだできない。これから人生を送る人たちの葛藤がすがすがしく描かれていた映画でした。
To be, or not to be
「オフィーリア 奪われた王国 (Ophelia)」
シェイクスピアの「ハムレット」を、ヒロインのオフィーリアの視点で描いた二次創作の小説を映画した作品。。。だからハムレットを現代版にアレンジした物語だと思っていいでしょう。主役はスターウォーズのレイ役のデイジー・リドリーです。「マリッジ・ストーリー」に出てたアダム・ドライバーはどう見てもカイロ・レンでしたがこちらはちゃんとレイではなくオフィーリアに見えました。
シェイクスピアの作品は登場人物が多く、しかも全員カタカナのお名前だからとても覚えにくくわかりにくいのですが、この映画は物語が掴みやすくわかりやすかったです。衣装や中世のお城もきちんとそれらしい雰囲気が出ていました。 ファンタジー映画ほどの作り物感はなく、ほどよく幻想的な雰囲気が出るバランスのいいビジュアルでした。シェイクスピアの入門にふさわしい映画だと思います。
こんな映画上映したっけ?と思いながらレンタル店で観かけて思わずかりてしまった映画です。日本では劇場公開されず、DVDスルーになったもよう。youtubeで予告編を探したのですが日本語字幕がない本物の公式版しかありませんでした。ネット配信が流行ですが、レンタル店に行かないと見つけ出せない映画もあったようです。外出自粛の世の中ですが、レンタル店にちょっと出かけるのだけはどうかご勘弁(m__m) 似たようなことを考える人は多いようで、貸出中のDVDがいつもより多かった気がします。
<追記>と思ったらNetflixで配信してました。200円損した…
OPHELIA Official Trailer (2019) Daisy Ridley, Naomi Watts Movie HD
人生の脚本について
「コレット (Colette) 」
フランス人作家ガブリエル・コレットの伝記映画です。
コレットが作家になってから最初の夫と離婚するまでの、20歳~30代半ばまでの半生が映画のベースになっています。映画のあとの実際のコレットさんは、舞台役者をやりつつ戦争(第一次大戦)が始まると戦争の状況を伝えるジャーナリストや野戦病院の運営をしたりしていたそう。結婚は全部で3回しているようです。
戦争の話を絡めると、それはコレットの人生ではなくてコレットを通して見た戦争の話になってしまいます。結婚→離婚の流れが少なくとも2回登場してしまうと物語の展開としてみると単調になりかねません。長ければ100年は生きる人の人生、成長して人格が変わったり、途中でキャリアを変える人もかならずいて、そうした内面の変化を丁寧に描き切るためには一本の映画では尺がたりないのでしょう。だから、描くとしたらせめて人格もキャリアも一貫性が保てる十数年ということになるのでしょうか。
面白い映画でした。けれど、作中でのコレットは確かに文章をフランス語で書いているようなのですが本編のセリフは全部英語です。本当のコレットはフランス語話者だと思い、違和感を感じてしまいました。それとも、ヨーロッパ全体で共有される著名な作家だから英語でもOKということなのでしょうか?